ひよっこ作家

おはぎとコーヒー

2022.12.02

 3週間くらい前に、ディズニーランドとディズニーシーに行った。テーマパーク自体、あまり行く機会がなく、学生時代にディズニーランドへ1度だけ行ったきりで、ディズニーシーは初めてだった。夫は子どもの頃に何度も行ったことがあるようで、いろんな思い出話を聞かせてくれた。園内での昼食は決まって宇宙人が作ったピザだった、とかこのアトラクションに乗るのが怖くて、並んでいた列から途中退出の出口を通って逃げた、とか。園内の至るところに、思い出が今もみずみずしく残っているようで、その思い出をなぞりながら遊ぶのはさぞかし楽しいだろうし、満たされることだろうなと羨ましく思った。

 園内も何となくそんな雰囲気で包まれてるようで、わたしはなんだか居心地が悪かった。誰もがここでの大切な思い出を持っており、思い出に今日を重ねているようだった。思い出の下地がない自分には楽しめないような気さえした。そんな偏屈者の自分にうんざりしたが、来たからには楽しみたい。楽しむ気持ちがなければ、楽しいことも楽しくならない。少しずつでも、この世界観に入り込んでいこうじゃないか。素直に楽しめばいいのに、わたしは何でもかんでもいちいち難しく考えてしまう癖があり、その点にはほとほといやになっている。

 

 「これは怖く無いからさ」と夫が言ったので、ビッグサンダーマウンテンに乗った。わたしは絶叫マシンが苦手だ。もちろんビッグサンダーマウンテンにも乗ったことがない。しかし夫はこれにかなり乗りたがっていた。では是非とも一人で乗っては、と伝えると、一人では乗りたくないと言う。滅多に来ることがないディズニーランドだ、わたしは渋々列に並び、40分待つ。乗り物が走る様子を見て、これが怖くない?と疑いの気持ちも生まれてきた。それでも夫は「怖くないよ」と言い張る。まあ子どもも並んでいるので、大人であるところのわたしが乗れないわけはないだろう。それでも、怖いものは怖い。どの友達に話しても「あれは怖くない」と言われるのだが、わたしは、あの浮遊感に楽しい気持ちが持てないし、どういう経路で乗り物が進んでいくのか分からないことや、乗り物から振り落とされそうになることがとにかく怖いのだ。あとあの安全バーに信頼ができない!もっとがっちり守ってほしいのだ。わたしは乗ってる最中、体は縮ませ、目も開けられないままいた。夫にたいそう気の毒がられた。気の毒がっていたのも束の間、夫は「夜はランドの夜景が見えて綺麗だから、夜も乗りたい」と言ったのである!わたしは絶対に嫌だと思った。

 

 ピノキオや白雪姫、ピーターパンなどのクラシックな乗り物がわたしは好きだ。次々に出てくるキャラクターを見て、あれがいる、これがいると喜んでいるうちに、あっという間にアトラクションは終わってしまうのであった。ダンボにも乗って、わたしは大喜びだった。

 

 すっかり日が暮れた。我々は2回目のビッグサンダーマウンテンに乗ることになった。乗りたくない、でも乗らないのは夫にかわいそうだ、でも乗りたくない、色々考えるうちに嫌な気持ちでいっぱいになり、わたしはついに不機嫌になってしまった。「やめとこうか」と夫が気を遣って言ってくれたが、今まで乗りたい乗り物に、こんな理由で乗れなかったことなんかないに違いない、乗りたくないが、乗らないのは夫がかわいそう。夫は乗り物嫌いの自分と結婚したがために、これからの人生乗りたい乗り物にも乗れないのだ。そう思うと人生の選択まで悲観してしまう自分なのだった。悲観し始めるとそこからはもう止まらない。悲しい、情けない。夫はかわいそう。わたしはなんでこんなわたしなんだろう。たかが乗り物のことで。この世の大半の人が好きで、乗りたくてたまらないであろう乗り物に乗ろうとしているときに、わたしはどうしてここまで真逆の感情を持てるのだろう。自分の思考の歪みの癖に、気づいてはいるのだけど、渦中にいるときに気付くことは困難なことだ。わたしは思考の歪みがある。これは事実なのだ。この歪みをちょっとずつ治していくのが、残りの人生なのだろうか。その後、プーさんのハニーハントに乗り、わたしの機嫌は直った。 

 

 先日、モールで遊んだ。モールとはつまりモケモケの針金のことなのだが、赤や緑のそれをねじって、クリスマスの装飾を作った。モールは、曲げたりねじったりして形を変えることで、ステッキやリボン、星などの装飾を作ることが出来る。モールは始めはまっすぐなのだが(始めからちょっと曲がってるものもあるが。)、曲げたり、ねじることで形を変える。一度曲げたりねじったものは、まっすぐに戻そうと思ってもなんだかまっすぐにはならず、どうしても歪んでいる。試行錯誤して、モールを何度も曲げたり戻したりした。そうして出来上がった装飾は、正直言っていびつな形ではあるが、思考して作った自分が投影されたようで、綺麗ではないのだが、愛しいものだ。

 曲げたものは、ねじったものは、歪んだものは、そのまま活かせる。そのまま活かせることを、わたしは肯定していきたいし、わたしの救いとしていきたい。